(03.06.08)
音楽職人への路
道程・その1
小学校に入学したころ、音楽の時間が嫌で嫌でしょうがなかった。なぜならハーモニカが全くできず、一人ずつ吹かされるときは教室から逃げ出したかったほどだった。
初めてもらった通信簿の「音楽」はもちろん最低の成績。通信簿には、「夏休みにはハーモニカの練習をしましょう」と書いてあった覚えがある。
その夏休み、私の父は毎朝、ハーモニカで曲ではなく、「ドレミファ・・・」、つまり音階だけを一緒に練習してくれた。当時、父は中学校の数学の教師で、特別音楽の得意な人ではなかった。しかし、軍歌や童謡をハーモニカで上手に吹いていた思い出がある。
今考えると、父が音階の大切さを教えてくれた人といえる。おかげで、夏休みが終わるころには、不思議なことに、ラジオやテレビで流れてくる音楽の音を拾って(音階に置き換えて)吹けるようになっていた。
しかし、その「楽器」には半音が付いておらず、すべてハ長調。いま思えば、メロディーが半音の所はその音のつもりで吹いていたのだろう。私の辞書にはファのシャープとか、シのフラットなどというものは無かったのである。
これで音楽の時間も怖くないと思ったら、次なる壁が待っていた。それは楽譜であった。例えばシャープやフラットの付いていないハ長調の曲ですら、五線の上でドは分かっても、ファが分からず、ドから数えてやっと読める程度だった。耳で聴き取った音はハーモニカで吹けるのに、とにかく楽譜は面倒くさかった。
ところで、叔母が近所の子供にピアノを教えていた。叔母は私にもピアノをやってみないかと誘ったが、そのお稽古の雰囲気が嫌で行かなかった。ピアノは私にとって楽器というよりは、「お稽古の道具」という感じがして嫌だったのである。
その時もし習っていたら、小学校で楽譜が読めずに苦労することもなかったと思う。そして小学校四年生の冬休みに運命の出会いが訪れる。
道程・その2
小学校四年生の冬休み、東京の音楽大学に通う叔母が帰省していて、初めてミュージカル映画に連れていってくれた。
それは運命の出会いともいえる「ザ・サウンド・オブ・ミュージック」であった。 その映画の音楽と映像の美しさには感動し、涙がこぼれた。まさに生まれて初めての体験であり、音楽に目覚めるきっかけともなった。その感動は翌日になっても覚めず、どうしてももう一度見たいと思った。
しかし、映画に二日も続けて行きたいと親に言えなかった。私はマイナス思考(今でもややその傾向)なのか、最初からだめだと言われることばかりを考えて、自ら諦めて言えないことが多かった。この映画に出会い、音楽のメロディーだけではなく、ハーモニーの美しさにも開眼した。
その頃、我が家には何故かドイツ製の古いアコーディオンがあり、いたずらに弾き始めた。その楽器の左手側にはボタンが百二十個付いていて、様々な和音を鳴らすことができた。すなわち、右手でメロディー、左手でコード(和音)を弾く仕組みになっていて、ハーモニーに目覚めた私にとっては理想的な楽器だった。実はジャズピアノ奏法も、アコーディオン同様に右手でメロディーやアドリブ、左手でコードを弾くのが基本形。私がジャズピアノを弾くようになったのも、そのアコーディオンの延長といえる。
私が半音の付いていないハーモニカで音階を覚えたことは前にも述べたが、半音の美しさを兄が読んでいたギター独習書の中で見つけた時の感動も忘れられない。
少し専門的な話になるが、その本の解説で「Amコードに進む前によく E 7 コードを使います」と書いてあった。この E 7 コードは下から「ミ・ソ#・シ・レ」と重なっているが、まだ私の辞書にはない音「ソ#」が含まれていて、その響きに、モノクロとカラーほどのコントラストを感じた。
道程・その3
話は前後するが、私が小学校に上がる前、向かいの家に大学生のお兄さんがいて、遊びに行くと、よくピッコロを吹いてくれた。しかしその頃は、黒い木製の小さな横笛がピッコロということは知らなかった。そのピッコロが吹いてみたくなって、中学校ではブラスバンドに入った。残念ながらそこには同じ横笛でも、全部金属でできていて、大きさはピッコロの倍以上もあるフルートしかなかった。
私は割と簡単に音は出せたが、中村さんという三年生の男の先輩は、楽譜を見てフルートをすらすら吹いていた。
聴いて覚えた曲をアコーディオンで弾けても、知らない曲を楽譜を読んで演奏することなど、当時の私には夢であった。
ある日その先輩に、「どうしたら楽譜をよめるようになりますか」と尋ねた。すると「毎日まじめに練習に来れば出来るようになるよ」と言う。その言葉を信じて、フルートの楽譜を借りて帰っては、一曲ずつ五線ノートに写し、音符の上にドレミ・・・をふって読む練習を毎日続けた。
二年生になる頃には、自己流ではあるがフルートも読譜も上達していた。しかし、部員の揃わない日も多く、そんな日は練習場の教室のグランドピアノをいたずら弾きしていた。この延長で今もピアノを弾いているのである。
中学三年生の夏、同級生の鈴木京子さんが書いた詩にかってに曲を付け、内緒でNHKの音楽TV番組「あなたのメロディー」に応募、採用されてしまった。NHKから彼女の家に電話が入った時には、かなり混乱したらしい。まだ内幸町にあったNHKに、その番組出演のため母と上京したのも懐かしい思い出。
実は、その収録日に演奏はTV録音のものを使ってラジオ番組「あなたの歌」というのも収録した。一日でTVとラジオの収録をする訳だから朝から夜遅くまでかかった。
TVの放送日より後にラジオの放送があったがラジオのほうで流れた私達の一曲前が後にトワエモアでヒットした「空よ」である。
ちなみに世に出ることはなかった私達の曲名は「ガラスの夢」。女の歌詞なのに田辺靖夫さんが歌った。私としては伊藤ゆかりさんあたりに歌ってほしかった。今はカラスがうるさいから「カラスの夢」でも作るとするか・・・
道程・その4
高校時代は「いわゆるプロフィール」にも書いてある通りブラスバンドの日々であった。当時、学校にあった楽器はひどかったので私は親を説得して初めて自分の楽器(フルート)を手にした。
フルートは頭部管・胴部管・足部管がつなぎ合わさってできていますが、私が買ったのは安い方の頭部管は銀製、胴部管・足部管は洋銀、というもので4万円ぐらいでした。(現在はこんな金額じゃ買えないらしい)
高校一年生の夏休み、4万円を折りたたんで入れた小さな布袋を盗まれないようにズボンの裏側に縫いつけてもらい(このへんが田舎もん~って感じ)一人上京、東京に住む叔母に連れられて当時フルートでは国内最高のメーカーとされる「村松フルート」を訪ねた。
私が試し吹きをして楽器を決めた後、その楽器を店員さんがちょっと吹くと私の何倍も良い音色で吹いた。叔母も「あんたより全然うまいネ!」なんて言ってる横で店員さんにお金を払うとき恥ずかしかったのを覚えている。
ちなみにその楽器は今も大切に持ってるし、ちゃんと鳴るし、ちゃんと吹ける?し、「しっしっし~シがみっつ」はないけど「わっわっわ~ワがみっつミツワ石鹸」このCM曲、桂君の祖父「村上一徳」さんの作ったものらしい。っていても古すぎる話か?
三年生で吹奏楽部の指揮者になったが毎年秋になると大会があり指揮者の責任は大きい。今まで経験したことのないプレッシャーが私の体を襲った。大会一週間前からリーゲが止まらず薬を飲んでも何をしても止まらない。結局、怖くてろくに物も食べられなくなってしまった。精神的なことでお腹がおかしくなるなどとは考えた事もなかった。やがて最高の成績で大会も終わり朝を迎えると今までのことは嘘のように直っていた。 注)リーゲ=下痢
道程・その5
そもそも私が、ジャズピアニストとして活動を始めたのは二十二歳位からで家内の伴奏者として、また彼女が主宰するボーカル教室・生徒の伴奏であった。ジャズの場合、ちゃんとした伴奏譜があるわけではなくピアニストがその曲のメロディーとコードを基に即興的に伴奏するのが一般的だ。
最初は曲も知らず、ましてやオリジナルキー(一般的に男声調)を女声キーに移調して伴奏することなど全くできなかった。しかし先輩ピアニストの多くは、歌手が曲名とキーを言っただけですらすらと伴奏していた。
中学生に頃は、楽譜が読めず、フルートの譜面を持ち帰っては書き写した思い出があるが、今度は移調できないために書き写すことになった。ひたすら譜面を書くうち、スタンダード・ソングと呼ばれる曲も多く覚え、同時に、移調して伴奏することにも慣れてきた。
さらに女声コーラスを主体にした「ザ・シャイニーストッキングス」を作ったことで、独自のコーラス・アレンジや多種のバック・アレンジをする機会を得た。
男性歌手ともよく仕事をし、最初に仕事をしたのは故武井義明さんだった。ソフトで大変美声の持ち主で、駆け出しの私にも優しくしてくれた。毎日夜中の三時位まで、一緒に仕事をしたのも懐かしい。
今はアメリカに帰ったジェリー伊藤さん(しつこいようですがジェリー藤尾さんではありません)の音楽監督も担当した。(その後2007年に79歳で亡くなった)
ジェリーさんは、いわゆるショー・シンガーであり、すべて伴奏を編曲して歌うスタイルで曲名とキーだけで伴奏する仕事とは正反対だった。
しかし外国からの著名なボーカリストのコンサートに行ってみて驚いたのは曲名とキーだけで演奏する人など殆どいなかったことだ。曲の始まりから終わりまで、かなり計算して作ってあった。
やはりボーカルの伴奏というのは、楽器と違い歌詞もあるわけだから全部とは行かないまでもきちっと作るべきだと感じた。
ある時期、歌手の持ってくる譜面もいい加減だったのかもしれないが伴奏するミュージシャンは譜面を無視することが多かった。現在ではイントロ・エンディングをきちっと作った譜面を持って仕事に臨む歌手も多く伴奏者も誠実だ。
私は譜面は道しるべであり、きちっとしていれば互いが無駄な労力を使わず演奏に集中できると考えている。ま~こんなことはクラシックの人には常識でしょうが・・・
道程・その6
音楽は何といっても、気分のものです。好きなこととはいえ、気分が乗らない時に演奏するのは辛いもの。しかし、職業としてミュージシャンの道を選んだからには、仕事に向けて気持ちをコントロールしなければならない。
ジャズの演奏は自由な部分が多く、奏者の気分や体調でかなり変わってくる。「今日は乗って演奏できた」と自が爺さん、いや自画自賛していると「力が入っていて良くなかった」と面と向かっては言わないが顔に書いてあったり、逆に「今日の演奏は乗らなかった」と落ち込んでいると「力が抜けていて良かった」などと聴き手だけではなく、共演者にも(半分お世辞かもしれないが)言われることがある。
つまり聴き手も共演者も人間、(皆兄弟って言ったら話が脱線してしまうが)皆気分というものが伴っているので良いも悪いも、正しい?判断などないのだ。
同じCDを朝一番に聴くのと、深夜に聴くのとでは全然違う。生演奏を聴く場合にも、視覚的要素も加わって、感じることの多さは計りしれない。
ここからは脱線ですが、よく「美人シンガー」とか「美人ピアニスト」とかいうキャッチフレーズを耳にするが、これもまた視覚的要素ですな。お客さんの中には時として、演奏を聴くんじゃなくて見に来てるとしか思えない人もいる。
さらに脱線で、恐縮ですが、聴かないといえば昔、今は無きホテルニュージャパンのラウンジで家内のボーカルと私のピアノで演奏していたときの話。
外人のお客さんが(このホテルは外人宿泊者が多かった)休憩時間に私達を客席に呼んでくれて店内を見渡しながら「日本人のお客さんはなぜ貴方達がパフォーマンスしているところでアタッシュケースから書類を出して仕事をするのですか?仕事は会社でするのでしょう?WHY?」と嘆いた。「文化の違い」をつくづく感じた。
さて、線路に戻ろう。線路は続くよどこまでも・・・・ジャズの神様といわれるデューク・エリントンは、「音楽には良い音楽と悪い音楽しかない」と言ったそうだが、我々凡人には言い切れないことだ。
私は家内のボーカル教室に長年携わって何百人もの伴奏をしてきた。一応格好はつき、世間的には上手いと言われる生徒もいれば、決して上手くはないが何かを感じさせてくれる生徒もいる。その何かとはまさに「良い音楽」なのだが、残念ながらその生徒がプロになれるか否かは別問題である。
音楽の魅力は限られた時間の中に無限の音の世界が広がり、結論などなく、ただ、ただ「どう感じる」かである。
私のような者が語れることではないので書いてしまいますが、昨今の教育では、この「どう感じるか」という部分がおろそかにされているように思う。間違っても「どこが感じるの?」というようなエッチな話ではありません。
人間は感じる動物なのです。感じなくなったら、感じる動物が豚(とん)じる動物になってしまいます。ですから豚汁なんか食べてると感じなくなります。(何をいってるんだ!きみまろ乗移る)
マジな話に戻りますが、演奏や歌が上手くなるに超したことはないが、やはり「良い音楽」を多くの人に伝えられるようになりたい、と思っている。今、私にとって「良い音楽」とは、音への大切さや愛情が沢山込められていると感じられる音楽である。
道程・その7
ピアノの音程・音色は調律師が作ってくれるので弾いている最中にある音をもう少し高めにとか低めになどということは不可能だ。音色も奏者の技術によって変化を付けられるが楽器自体はやはり調律師が作るのである。
ピアニストは仕事場に自分のピアノを持ち込めるわけではないので、そこにあるピアノを弾かなければならない。しかし調律が狂っていたり、ひどい時には弦が切れていることもある。
幸いジャズピアニストは同じ曲をスタイルを変えて演奏できる。例えば音程が気になるときは長い音符を減らし音数を増やす。また鳴らないピアノはオクターブ・ユニゾンで音を厚くしたりといろいろだ。
歌も含めて他の楽器のほとんどは演奏者自身が音程と音色を作りながら演奏するのだから改めて考えてみるとなかなか大変な作業をしているといえよう。
正確な音程とか正確なリズムというと機械的で毛嫌いする人もいるが、人間の不得意とする「正確さ」に背を向けては「良い音楽」から遠ざかってしまうのだ。
感情がこもっていれば音程が悪くてもリズムが悪くても良いわけはなく、限りない音への正確さと愛情を同時に持てるようになりたいものだ。
一流プレーヤーのジャズとかボサノバを聴いていると表面上はルーズな雰囲気を醸し出していることが多い。が、よく分析して聴いてみるとタイトなリズムと音程に裏付けられていることがほとんどだ。
私はこの「タイト」であることこそ「音楽的」と考える。ジャズ以前に、ボサノバ以前に、いや全てのスタイル以前に音楽的でありたい。
ジャズを勉強し始めたころ、アドリブに熱が入るとリズムから外れて他の演奏者と拍子がひっくり返しになってしまうことがあった。先天的にリズム感の良い人はこのようなことは起こらないのだが残念ながら私はテンポ感覚・拍子感覚、共に悪かった。(ここだけの話、私にとって永遠の課題だ)
日本の音楽はリズム的に見ると四拍子の場合1と3がポイントで(よく宴会などで皆が取る手拍子)、ジャズの場合2と4がポイント(アフタービートという)になる。
歌舞伎町でソロピアノを弾いていた頃、週末になるとドラマーの山田光利さんに来てもらって何とピアノ・ドラム(といってもシンバル・スネア・ハイハットだけ)のデュオをやったことがある。彼は左足で踏むハイハット(通常アフタービートを踏む)こそジャズリズムの命だといっていた。そのリズムの取り方をヒントに私は壁を一つ乗り越えることができた。
・・・・・とか言っても昨今、タイムとかパルスとかいった次元で音楽をとらえられるミュージシャンが増えちゃって、私のようなアナログリアンはデジタリアンにはついて行けぬ。
でもちょっとベジタリアンです。私は・・・・・
道程・その8
ピアニストの仕事はソロ、デュオ(ピアノ+ベースやギター)、トリオ(ピアノ+ベース+ドラムまたはギター)、カルテット(ピアノ+ベース+ドラム+ギターまたはサックスなど)、果てはフルバンドまで様々な編成がある。
編成は仕事内容や予算などによっても変わり、一緒に演奏するメンバーも、六十代の先輩から二十代の後輩?まで顔ぶれもいろいろ。でも、音を出している時間は、先輩後輩も、男女も、夫婦も、親子も超越した世界です。「音楽」という素晴らしいものへの集中が要求され、人と人の音楽的な本能の大胆かつ繊細な会話が広がります。
数年前の話です。今は無き銀座の、とある店で故ジミー原田さんと一緒に演奏する機会がよくありました。ジミーさんは日本の草分け的ジャズドラマーで、その頃は八十歳を超えていましたが、いつも元気で、ハッピーに演奏していました。ジミーさんは家でも練習を欠かさなかったそうですが、人間八十年もやっていれば、衰えがきても当然です。演奏中にみんなとずれてしまうことも時々ありました。すると「ごめん」と、我々若手・楽隊に言って、楽しそうに演奏を再開するのです。
注)「楽隊」は、私達の業界でも死語ですが音楽隊の略でバンド・メンバーを意味する。
これまた余談ですが、私が初めてこの言葉を耳にしたのは故ディック・ミネさんが、リハーサルの時にフルバンドの人たちに「おーい楽隊!」って呼んだときです。この他に「バンマスと兵隊」はバンドマスターつまり、バンド・リーダーとメンバ-を指しますがメンバーを兵隊というあたり、軍国主義のなごりですな。
また脱線してしまったが、ある時、スローで美しい曲の演奏が始まったのですが、ドラムの音がなくなりました。ジミーさん、何と客席で私達の演奏を聴いているではありませんか。なぜ?と、尋ねると、「こういう曲は、僕が叩いて邪魔するより聴いていたいんだよね」という謙虚な答えが返ってきました。その日の仕事が終わり、別れるときには、必ず我々一人一人の手をしっかり握って、「ありがとう」と言ってくれた。
ある晩、またジミーさんと一緒に演奏する機会がありましたが、ジミーさんは体調が少し悪そうでした。お店の人も彼に無理をしないで休むように勧めていましたが、「久しぶりにヨウ(私の名前)と一緒なんだから帰らないよ」と最後まで演奏した。そして、いつもと同じく握手し、「ありがとう」と言って帰って行きました。
いつも安っぽいギャグばかり書いている私ですが、さすがに今回は書きながら涙が止まりせん。
この晩がジミーさんの最後の演奏となりました。「ジミーさん、ありがとう」合掌
道程・その9
私は15年ほど音響関係の専門学校で音楽ゼミナールという科目の講師をしたが、残念ながら学校自体がなくなってしまった。少子化の影響もあって学生が減り運営していくのが大変だったらしい。
さて私が受け持ったクラスは音楽家を養成するのではなく音響技術者を目指す学生に楽器演奏の体験をしてもらうものだった。クラスの中には小さい頃からピアノを習っていた子もいれば鍵盤に初めて触れる子もいた。それなのに結構難しい曲を合奏しようというのだから教えるほうは大変だ。
私もミュージシャンである以上、音楽のこととなるとつい熱が入ってしまい演奏体験のクラスだということを忘れがちであった。教え始めた頃、音楽専門ではないうえ高校卒業したての若い学生にどう接したらいいか分からず悩んだのを覚えている。ものを習う経験が少なかった私は人に教える時、注意はしても誉めることの大切さに気づかなかった。
ある時、男子学生に「今のちゃんと弾けたネ」と何気なくいった時の彼の嬉しそうな顔を見てこの一言がどれだけ彼の励みになったかを痛感させられた。
また、女子学生と話をしていて驚いたのだが彼女と私の息子は同い年で更に父親も私と同じそうだ。今まで他人の子と自分の子を比べて考えたことはないのだがこの時初めて学生に対する見方が変わった気がする。
つまり私は学生をいろんな意味で大人に見過ぎて年齢を差し引いて接することが少なかったと反省している。
毎年2月には学校をあげて卒業制作のミュージカル公演をするのだが音ゼミ科は伴奏をするために10月くらいから年を越してのハードな練習をこなした。ある年の公演最終日、入学当初はやる気のなかった男子学生に「みんな良かったよ」というと彼は上気した赤い顔をして「先輩にも伝えて来ます」と駆けて行った。彼はこの経験を通して何かをやり遂げた幸福感を初めて感じ取ったようだった。
道程・その10
音楽に国境はないというけれど、犬の鳴き声(音楽ではないが音には違いない)を聞いて、世界中の人にその真似をやってもらったら「ワンワン」と言うのは日本人だけだと思う。これは言語にも密接な関係があると思われるが、同じ音を聞いてもその捉え方が国によって違うからだ。動物の鳴き声と音楽を一緒にしてはまずいかもしれないが、言語が違えば当然その聞こえ方も違ってくる。
十数年前、私はあるライブハウスでアメリカから来日中のミュージシャンがアフターアワーズ(本番が終わった後)にリラックスして演奏しているのを聴いていた。そのピアニストとベーシストの演奏は、まるで英語で会話しているようだった。私は英語を話せるわけではないのだが、私の耳にはその音楽のフレージングやイントネーションが英語に聞こえたのである。
そもそもジャズはアメリカの民族音楽であり、それはアフリカから伝わったリズムセンスと、ヨーロッパから伝わったクラシック音楽センスの融合と私は考える。多民族が共存するアメリカらしい音楽であり、常に新しいスタイルを追求して変化していくのである。単一民族の音楽ではないということで、日本人の私も勝手に仲間に入れてもらっている次第だ。
日本に生まれ育ち、ジャズという音楽を知ったのも遅いわけだから、民族音楽としてのジャズの追求などしようとは思わない。ただ大好きなジャズの手法によって音楽表現したいのである。
アメリカ人が英語的発想で演奏しているのを、私は日本語的発想で聴き演奏しているのだが、「音楽に国境はない」ということで許してもらっている。何と言っても面白いし楽しいではないか。
逆に日本の民族性が強い日本民謡を外国人が理解し、歌うことは難しいと思う。同じように、日本人がアメリカの黒人の民族性が濃いゴスペルを歌うのも難しいと思うのは私だけだろうか。(聴いて感動する分には良いと思うが)
本音を言うならば英語も理解していない私が、英語の曲のコーラス・アレンジをすることへの不安を常に感じていた。(一冊、その楽譜を出版までしてもらった)
そこで英語の歌詞を取り払って、今まで書いてきたコーラス・アレンジのポリシーを他の楽器に置き換えてみようと考えた。そして考えついたのがストリングスとアルトサックスを主にしたユニット「ザ・室内バンド」ということになったのであります。
これからは少し英語の歌詞というプレッシャーから離れて、このユニットのアレンジに取り組もうと思っている今日この頃である。