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いわゆるプロフィール
ギャラを頂けるようになる前の生きざま(新潟編)
語り:仲人
新郎の小林洋君は1954年4月30日新潟市の生まれで新潟市立浜浦小学校・新潟市立関屋中学校をとても優秀とはいえない成績でご卒業になりました。
ちなみに洋を「ひろし」ではなく「よう」と読ませるようになさったのは新郎のお父様、小林常雄様で、なんでも男の子が二人いて三人目は女の子が欲しかったそうで名前は「洋子」と決めていたそうです。ところがまた三人目も男子誕生で面倒だから名前は「洋子」の子を取って「洋」という極めて安易な命名だったわけです。これでもお父様は学校の先生ですからネ・・・・・
中学校在学中はどうにもならないブラスバンド部に入部してしまいフルートを吹き始めますが、部員がまともに集まることは少なく、仕方なく音楽教室のグランドピアノをいたずらするようになります。この延長で今もピアノを弾くことになったとのこと。
その後、新潟県立新潟商業高等学校に優秀とはいえない成績で進学され吹奏楽部ではフルート及び指揮を担当、大会等ではかなり良い成績を残しました。
当時、まだスパルタ気質が残っており、恐らく360日は吹奏楽部の練習に通ったとのこと。高校生でありながら二日酔いで授業はサボっても放課後の練習だけは行かなければならず、練習をサボると連帯責任などといって正座させられたりしたそうです。
しかし算盤・簿記など何一つ身に付くことなく無事、商業高校を卒業できたのはとても授業態度がよく各科目の先生の心証が良かったからでは?それもそのはず授業中はひたすら音楽書を読みあさっていて他人に迷惑をかけなかったのだそうです。
卒業試験の時などは赤点(不合格点)にもかかわらず、すべての先生がお情けで点をくださり当たり前まえのような顔をして学校を去りました。
ギャラを頂けるようになる前の生きざま(東京編)
語り:本人
高校を卒業したら音楽大学に行ってもっと勉強したいという希望も持っていましたが、なにしろ体育会系の吹奏楽部にいたわけですから、そんな受験勉強の時間がとれる訳がありません。
それに東京の某音大を出られて新潟に戻ってソルフェージュを教えている先生のところに行きましところ、「小林君ネ絶対音感ないと作曲科は無理だよ」と言われてしまい受験はあきらめました。
そこで大学は無理にしても正式にピアノやソルフェージュを習ったことが無くても入れてくれる音楽学校を探してたところ、当時まだ寺子屋の雰囲気が残る尚美学園をみつけました。
高校時代は赤点ばかりとっていたので「赤点王子」などというあだ名を頂いていた私ですが音楽学校の入学試験は忘れもしない、筆記で99点を頂きました。マイナス1点の減点理由はシャープの位置がちょっとづれていただけのことでした。それ以来譜面を書くときシャープやフラットの位置がづれるとその時のことを思い出すのです。
他の学生がクラシックのピアノ曲をバリバリ弾いている中で私は19歳にして子供が最初に弾く教則本の「バイエル」を習いました。東京にはクラシックだけではなくジャズを教えてくれる学校もあることを知り1年通った尚美学園を後にしました。
さて次に行った学校で本当に知りたかったことを学べたのです。当時、六本木防衛庁前の小さなビルにあったアン・ジャズスクールであります。そしてジャズ・ピアノを坂元輝先生に、アレンジをなんと、あの佐藤允彦・大師匠に師事いたしました。
ジャズは自分で作り出すもので人から習うものじゃないなどと申しますが、私はその時教わった基本を今でも大切にしております。
ギャラを頂けるようになってからの生きざま(初級編)
最初にギャラを頂いた仕事は実をいいますとクラブ・ピアニストで、昭和50年頃、六本木は今の全日空ホテルの向かいあたりにあった「酔いどれ伯爵」という店でした。(現在、横浜にある同じ名前の店とも関係があるらしい)
最初はポピュラーなものを弾いていれば良いということで始めたのですが、やっぱりお客さん(酔っぱらい)の歌(歌謡曲)伴奏もやれといわれ、しまいには何か歌えということで、「ろくでなし」「思い出まくら」「シクラメンのかほり」ついでに「Fly Me To The Moon」「思い出のサンフランシスコ」なんかを弾き語りする羽目になった。
しかし歌謡曲の数だって半端じゃないわけで、知らない曲だらけ。毎晩12時過ぎまで仕事をして、翌日の昼には銀座の山野楽器に行って伴奏できなかった曲の譜面を探すという毎日だった。
歌謡曲の「ドミソ」ばっかり弾いていたせいで、せっかくジャズっぽいコードを覚えたのも弾けなくなってきていた。注)歌謡曲ではジャズと違い単純な響きのコード(和音)を使うことが多い。通称「ドミソ」
そんな時、私の通っていたジャズスクールから欠員がでたピアノ講師の話が来た。(自分で言うのも何ですが、そのスクールでは成績優秀だったのであります)ギャラは全然安くなるが自分のためにも歌謡曲から足を洗うためにも講師の仕事をうけた。
もし、その話が来なかったら歌謡曲バリバリの銀座の先生になって稼いでいたかもしれない。注)この場合(水商売)の先生は講師の先生ではなくピアノ弾きであります。
このように私は演奏よりも教える仕事のほうが先だったわけですが、いくらやっても人に教えるというのは難しいというのが本音であります。
当時、銀座は銀座でもジャズ・クラブの老舗「ジャンク」がありまして、そこには多くのジャズ・ミュージシャンを夢見る若者が働いておりました。彼らはお店が閉店したあと毎晩朝までバンド練習していました。
私はその中のギタリストと知り合い練習に加えてもらうようになり、やがて彼とともにカルテットを作り吉祥寺の曼荼羅に出演するチャンスをつかみました。
初めての出演日、私は緊張のあまり「ガリアー」して、せっかく練習した曲をメチャクチャにしてしまいました。他のメンバーは「真っ白」になってました。ちなみに私は「真っ赤」になってました。
注)ガリアー=あがること
ギャラを頂けるようになってからの生きざま(中級編)
考えてみたらプロフィールというのはもっと簡潔でなければならないことに今頃気づいた。普通、経歴をこんな脱線を繰り返して書いていたら就職採用されるわけがない。
就職といえば私がスーツを着てピアノを弾いているとサラリーマンぽく見えるらしく「昼間は何をしてるんですか?」なんて聞かれたことがある。
内心、頭にはきているのだが即答で「区役所に勤めてます」なんていったもんだから、もう大変。「プロになれるよ!カッコいい!」ときたもんだ。さぁ~取り返しがつかない。「どこの区役所?何課?」などと聞かれたら、と考えるとドキドキ。
さらにこの話の落ちがスゴイのだが、そんな話を聞いていたお客の中にマジにどこかの区長さんがいて怒りだした。すぐ店の女の子に冗談であることを伝えてもらった次第。ヒヤヒヤ・・・・
またまた脱線してしまったが、ジャズ・スクールで教え始めた22歳の頃、同じスクールのボーカルクラスで歌の伴奏者を探していた。
自分のためにも良い経験だと思い引き受けたのだが、ジャジャジャ~ン、ここで運命の出会いが・・・・ボーカルの先生であった「桂君のおかぁ」村上京子と出会ってしまったのであります。
そんなわけで村上京子の歌と私のピアノで仕事をすることに相成り、私もようやくプロの仲間入りをした次第です。
火事で大惨事になったホテル・ニュージャパンの1階奥にあったラウンジ。そして六本木バードランドでは本来弾き語りの時間を二人でやったりもした。もちろんギャラは一人分でしたが・・・(当時バードランドでは早い時間は弾き語り・普通の時間はメインのバンド・深夜はピアノソロと贅沢にミュージシャンを雇っていた)
息子の小林桂が彼女のお腹にいるとき、新宿歌舞伎町は「壷の家」というパブに「ハコ」でソロピアノを弾いていました。
この頃は小さなアパート暮らしで、ピアノがなかったので仕事で弾く時間が練習でもあった。幸い演奏時間は私におまかせだったので3~4時間ぶっ続けで弾く日もざらにあった。
週末は彼女も一緒に仕事をしたが妊娠8ヶ月になった頃、さすがに店長さんが「お腹がそろそろ目立ちますのでお休みください」といわれ彼女はステージを降りた。
注)「ハコ」とは普通の職業なら当り前だがバンドマン用語で毎日同じ店に出演すること。これに対し「ヒロイ」は一定の決まった店ではなく単発的な出演。また、この「ヒロイ」にも含まれるが「トラ」といってエキストラの略で誰かの代理で出演すること。などがある。
ギャラを頂けるようになってからの生きざま(上級編)
桂が生まれて間もなく今度はバンドのハコの仕事が入ってきた。そこは池袋西口、ロサ会館のセントラルパークでリーダーがドラムの山田光利さん、ベース笹本茂晴さん、ピアノ小林洋、ボーカル村上京子、という顔ぶれであった。
しかし生まれたての赤ん坊を預けて二人で仕事をしてもベビーシッター代にお金がかかり一人分にしかならなかった。
さて、ようやく「いわゆるプロフィール」に到達いたしました。
●1982年頃 *ボーカルの生徒にコーラスをさせるためにアレンジに取りかかる。*これがきっかけとなり女声コーラスグループ 「ザ・シャイニーストッキングス」が誕生。 コーラスリーダーを村上京子、総合リーダー・アレンジを小林洋というコンビで活動開始する
●83年1月*LP「ザ・シャイニーストッキングス」をビクターより発売
●TV朝日「モーニングショウ」にて北村英治カルテットの編曲、ピアノを一年間担当
●84年1月*LP「ブルーレディーに紅いバラ」を発売
●赤坂ミカド・バンブールームにて芦田ヤスシ・グループに参加
●86年1月*音楽TV番組「ミュージックプラザ」の音楽プロデュースをつとめる
●ジェリー伊藤(Vo)さんの帰米までミュージカルディレクターをつとめる 注)ジェリー藤尾ではありません
●88年6月*岩崎敏信&ブルートロンボーンズにてCD「ムーンライトカクテル」にて編曲とピアノで参加*この間、仕事をしていなかったわけではありませんが、あまりいろんなバンドに顔を出したりして忘れてしまったのです。というか調べるのが面倒くさいのであります。
●97年4月*猪俣猛&His Symphonic Jazz Orchestra のCD「メモリー」 にて、恐れ多くも前田憲男さんや小川俊彦さんに混じって編曲とピアノで参加
●10月*同上CD「見果てぬ夢」編曲とピアノで参加
☆参加バンド:栗田八郎トリオ・根市タカオトリオ・光井章夫カルテット・柳澤慎一とジャパンオールスターズ他、数多くのセッションをこなしている。
☆今までよく伴奏させて頂いたボーカリストのみなさん:故笈田敏夫・木津ジョージ・由紀真・テリー水島(敬称略)この他にも多くの方々と共演してきました。
最近共演した若手のボーカリストの皆さんは名前がなかなか覚えられないため割愛させていただきます。
ここ数年は息子・小林桂の録音・コンサート等の音楽監督も多くつとめている。
今までが今までだから、このような箇条書きのプロフィールってのはツマランもんですな。いやツマラン、ツマラン、ツ、マランツのスピーカー?何をいってるんだ?です。
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